多功城(上三川町多功)
上三川町の西端にあり、JR東北線石橋駅の南東600m、明治南小学校の北西600m、県道146号の多功宿一帯が城址である。
ここの県道沿いに見性寺という寺があるが、この寺も城域であるが、城の主体部は県道の北、石橋ゴルフガーデン付近であり、その北側及び西側に遺構が残る。
城は宝治2年(1248)宇都宮氏5代目宇都宮頼綱の四男宗朝が、宇都宮氏の本拠、宇都宮城の南の防衛拠点とするために築城し、多功氏を称したという。

以後、多功氏は宇都宮氏の軍事部門の頭となり「武の多功」と言われ、多くの合戦に登場する。
康暦元年(1379)の「茂原の合戦」、天文年間の那須氏との「五月女坂の合戦」、元亀3年(1572)の「多功の戦い」、天正12年(1572)の「沼尻の合戦」等である。
このうち、この多功城自体が舞台になったのが、元亀3年の多功の戦いである。

この時は北条軍が大軍(2万というが、せいぜい数千だろう。)で北上し、宇都宮氏を攻撃。
これに対し、宇都宮氏は佐竹、小山、那須氏の援軍を含めて、多功城に本陣を構え迎撃。
この時、佐竹配下の太田資正と梶原政景、真壁勢の迂回攻撃で北条軍を撃破したという。
その後、北条氏は何度も宇都宮領に侵入し、この多功城も攻撃に晒されるが、最後まで落城の憂き目は見ていない。

この城で北条軍を阻止したことで、宇都宮城への攻撃の圧力が軽減され、結果として宇都宮領の南方の守りの拠点としての当初の役目を十分に果たしたと言える。
なお、永禄元年(1558)上杉謙信(当時、長尾景虎)が下野に侵入し、佐野小太郎が多功城を攻め、多功長朝が奮戦し、佐野小太郎を討ち取り、敗走する越後勢を追って上州白井まで遠征、太田三楽斎の仲裁で和睦したという「多功の戦い」が伝えられているが、永禄元年に謙信が関東に出陣した事実はなく、この合戦の真偽が疑われる。

しかし、宇都宮氏の多くの城、同様、多功城も慶長2年(1597)豊臣秀吉により宇都宮氏が改易されると、多功氏も連動して改易され、廃城となったという。
なお、多功氏はこの地で帰農したが、最後の当主13代綱朝の次男は今治松平家に、三男が米沢上杉家に仕え、系統を残す。
現在、城址に居住しているのは多功氏家臣の子孫という。

この城の経歴からは多功氏の戦意と多功城の堅固さが伺われるが、今残る城の遺構はそれを感じさせるものではない。
文化2年ころに作成された図を見ると、城は東西約400m、南北300mの広さがあり、長方形をしており、北に湿地帯を置き、南に大手があったという。
曲輪は本郭、二郭、三郭、御花屋敷、御蔵屋敷、外曲輪があったという。

鳥瞰図は文化2年ころの図と現地の地形と残存遺構をもとに想像してみたものである。あくまで推定なので、正確性は自信がない。
文化2年ころの図はかなりデフォルメされており、曲輪は全てが四角で描かれる。
しかし、現地の地形とは合わない。しかし、堀の数などは正確なようである。

外郭については、見性寺の西に堀跡と思われる部分があるため、さらにいくつかの曲輪に分かれていたかもしれない。
西城についてはどうなっているかさっぱり分からず省略した。

多功氏の菩提寺の見性寺や星宮神社も城域の中に含まれていたようである。
本郭は東北部にあったようであるが、現在、その地は石橋ゴルフガーデンの地であったようで何も存在しない。
その南に大手門、西から南に二郭、三郭が存在していたようである。

現在残る遺構は、石橋ゴルフガーデンの北側に字の消えかけた解説板があり、三重の土塁が150mほどに渡って残る。
@一番内側の堀 A2番目の堀、かなり埋没している。 B城の北端、水田は堀、湿地跡だろう。 C御蔵屋敷西の堀
D御蔵屋敷の土塁 E本郭の跡はゴルフ練習場 F外郭にある見性寺 見性寺の西に堀跡のような溝がある。

堀は埋没しているが、当時はかなり深く、水堀であったと思われる。
北の水田地帯にも堀があったのかもしれない。そうすれば三重の堀ということになる。
この堀、ゴルフガーデン西側の民家のところで南に分岐する。
民家側に土塁が残る。

一方、西にも堀が延び、ここも三重の土塁になっている。
もっとも内側の土塁は大きい。
ここが本郭かと思ったが違うようである。
御蔵屋敷というようである。西側にも堀があり、全周に堀と土塁がある。
しかし、凄い藪で写真が上手く撮れない。

本郭と間違えるくらい立派な堀と土塁を持つ曲輪であるので、名前のとおり、米蔵、武器庫、金蔵等、重要物資の保管場所ではなかったかと思われる。
この場所の西側が西郭(または西館)であったらしいが、民家である。
文化2年作成の図によれば、ゴルフガーデン西側の民家の地が御花屋敷だったようである。

すると、ゴルフガーデン自体が本郭跡ということになる。
そこで過去の航空写真を探してみた。かなり以前まで遡ってもそれらしいものは確認できなかったが、昭和23年撮影のものに、現、ゴルフガーデンの敷地内の北側に東西に延びる土塁が写っている。
やはり、ゴルフガーデン自体が本郭で間違いないようである。

その土塁はゴルフガーデンの敷地内の北側なので、この北側部分には堀がさらに1重、本郭から見れば四重になっていたことになる。
南側がどこまでなのかは良く分からないが、見性寺の東側から南東側にかけて水田が堀跡のようにU字を描いて入りこんでいる。
また、見性寺の西側に確証が持てないが、堀跡らしい溝が存在する。

いずれにせよ廃城から年月が経ちすぎ、微耕地上の人の居住に適した地にある平城である。
遺構を期待する方が欲張りである。
今残る遺構だけでも残存している方が奇跡なのかもしれない。
(「日本城郭大系」「栃木県の中世城館跡」「とちぎの古城を歩く」を参考にした。)

上三川城(上三川町)
上三川城は上三川町の中心部の東、老人福祉センターの南西隣に位置し、きれいに公園化されている。
城のある場所は水田地帯を望む微高地であり、完全な平城である。

公園は本郭部分だけであるが、かなり手を入れられている。虎口は南、東、西の3方向に開いている。
南が正式な大手とのことであるが、東西の口は後付けのものである可能性もある。
南の口の位置は当時のままであろうが、虎口の周辺は何と石垣造りである。

水堀も護岸工事が施され池である。石垣など当時はなかったはずであり、どう見てもやりすぎである。
まだ、湮滅よりはましかもしれないが。

本郭の土塁は本物であり、これを整備したのであろう。
高さは4m程度ある見事なものである。折れもあり、南西隅は一段高く物見櫓があったのであろう。全体的に赤見城と良く似ている。
本郭は80m四方位の広さである。
郭内は一面の芝生。幼児連れの親子が遊んでいたり、サッカーをしている子供がいたりして住民の格好の憩いの場である。
土塁上は遊歩道になっており桜が植えられている。

訪れた時は桜が満開の時であり見事な風景であった。
周囲に二郭、三郭があったが、宅地化で失われている。
しかし、東のはずれ、水田を挟んだ東側の民家に土塁があるのを発見した。
単郭の館から発展した城であり、この点でも赤見城そっくりである。
説明板によると東西5,600m、南北1qもあったというから額田城より若干小さいが、かなりの規模である。
城下町を囲った総構を持っていたのであろう。

本郭南虎口。石垣は公園化に伴うもの。 本郭内部は整備された公園。
周囲を土塁が囲む。
土塁上から東側を見る。
堀が狭くなって残る。
堀跡は池になっており、庭園風。

建長元年(1249)、宇都宮頼綱の二男、頼業の築城という。
頼業ははじめ横田城を居城としていたので横田姓を名乗っていた。
上三川城築城以降は代々居城とし、8代目の元明の時、今泉に姓を変えている。

上三川城に係る戦いで永禄元年(1558)に起きた「多功の戦い」がある。
これは、当時長尾景虎と名乗っていた上杉謙信が宇都宮氏攻撃に攻め寄せ、これを宇都宮氏の軍が撃退したという戦いである。
しかし、上杉謙信が関東に出陣するのはこの後のことであり、攻撃をしたとしたら先に厩橋に来ていた部下の軍勢が考えられるが、北条氏ならともかく、そもそも宇都宮氏を攻撃する理由が全く見当たらない。
これは他の合戦と混同があるのかもしれない。

小田原の役で北条氏が滅ぶと、宇都宮氏で跡継ぎ問題が起こる。
当主宇都宮国綱には男子がなかったので、豊臣秀吉のあっせんで五奉行の浅野長政の三男長重が推挙される。
家老の14代城主今泉高光はこれに賛成した。
一方、宇都宮国綱の弟芳賀高武は反対して対立。
慶長2年(1597)5月、芳賀高武は上三川城を急襲、落城し、城主今泉高光を自害して廃城となった。

梁館(上三川町梁)
上三川町役場から国道4号を挟んで西に2km、田川にかかる落合橋を渡って西岸を500m南下すると延命寺がある。
その北側が館跡である。80m四方の大きさの方形間であったと思われ、高さ1.5mほどの土塁が良く残る。

しかし、民家の敷地であり外側からしか見れない。堀はかなり失われてしまっている。
「栃木県の中世城館跡」によると曲輪中央部にも土塁があるという。

多功氏を興した宇都宮宗朝の10代の後裔、朝光が築館し、簗氏を名乗り、本家の多功氏の家臣として宇都宮氏の先陣として北条氏らと激しく戦ったのであろう。
田川上流には宇都宮城があり、田川の水運を利用した船付き場の管理の性格もあったのではないかと思われる。
南側に残る土壇 北側の土塁隅部

天神館(上三川町天神)

梁館の西1km、JR東北本線石橋駅の東300mに天満宮があるが、ここが天神館である。
町の名もずばり天神町である。

天満宮の境内が若干高くなっており、これが館の名残のようである。

この北側に二重の堀と土塁があったというが、宅地化が進んでおり、遺構は失われている。
すぐ南が多功城であり、北を守る出城(出丸?)であろう。

高島館(上三川町西汗)

上三川ICの東1.2km、江川にかかる高島橋をわたった東岸の南側が館跡である。

すぐ南西側を北関東自動車道が通る。
右の写真のように、江川に面した西側のみに120mほどにわたり、土塁と堀が残る。
本来は120mほどの方形館であったらしい。
館主は高島右京守と伝わる。

中館(上三川町大字東蓼沼)
鬼怒川西岸、県道158号沿い、町立本郷小学校の東にある満福寺とその東にある民家付近が館跡である。
満福寺南側の参道脇の低地が堀跡のようにも思えるが、主体部は東側の民家であり、北側に土塁が一部残るが、かなり破壊されている。
100m四方ほどの大きさがあり、北側は二重の土塁になっていた。
民家南側には堀が残るが土塁は失われている。南北時代頃、宇都宮氏家臣の黒須氏の居館であったという。

民家北側に残る二重土塁 館跡の民家内側から見た北側の土塁 民家南側は土塁はないが、堀跡が残る。

石田館(上三川町大字石田)

国道4号線沿いにある日産自動車上三川工場の西、県道35号沿いにある感應寺の北側、東側が石田館の跡である。

宅地と田畑となり、遺構はほとんど失われているが、感應寺の北に堀と土塁が一部残る。

残る遺構から館の規模を推定することは困難であるが、複郭であったらしい。
館主は不明である。
感應寺北に残る堀 感應寺北に残る土塁